あぷふぇる

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死生観が大きく変わった2020年。新たな成人の日を迎えて思うこと。 #1

 

こんにちは、管理人のあぷふぇるです。

 

2021年になっても感染者が過去最多を更新するなど、猛威を振るう新型コロナウイルス

ウイルスの通称はCovid-19、つまり2019年に発生確認されたウイルスなわけですが、このウイルスに最も振り回されたのは2020年といえるでしょう。

 

2020年前半はこのウイルスが「未知のウイルス」として多くの人々に恐怖を与えていました。

 

私も不安で仕方がない状態でした。

 

もちろん今でもワクチンが完全に開発されたわけでもないですし、パンデミックが収束したわけではないですが、現在は感染者こそ増えているものの警戒感が薄れているというのが的確なぐらいなのではないでしょうか。

 

人間の慣れとは怖いものです。

 

 

そして今日は成人の日。

成人式が開催された方、されなかった方、そもそも参加するつもりのなかった方、様々いると思います。

 

 

特に成人式が開催されなかった方は悲しい思いをされたのではないでしょうか?

かくいう私もこのパンデミックの影響で大学の卒業式がなくなった者の一人なので、当時はある種の喪失感がありました。

 

そこにあったはずの区切りが来ない。

自分は何も変わっていない。

 

それなのに環境は社会人となり、流されるままに仕事をし、それなりの生活を送りはじめ、気づけば1年が過ぎていました。

 

語るほど歳は重ねていませんが、人生とはこういうものなのでしょう。

 

自分の意思でどうにもならないことはたくさんあります。

 

なんのために生きているのか、誰かに生かされているのか

そんなことはわからなくていいんです。

 

 

このパンデミックの渦中を過ごしているからなのか、私の死生観は大きく変わりました。

180度変わったとかではなく、全く新しいものになったという表現のほうが正しいかもしれません。

 

これまでの私は「死」というものに大変恐怖を抱いていました。

 

畏怖の念ではなく、23年間漠然と恐怖だったのです。

 

なぜ恐怖だったか、一言で表すと「未知」であるからです。

生きとし生けるものに平等に訪れる「死」

 

なのに誰も詳細を知らない。

 

この未知の存在をずっと恐れていました。

 

 

 

冒頭に記載した、コロナウイルスに不安を抱いていた理由も、「未知のウイルス」であり、「死」に直結しているからです。

 

この「未知である」という点に不安だったり恐怖心を持つ人は多いのではないでしょうか。

 

これまでの人生を振り返ると、私にとって「死」は最も嫌う存在であり、最も恐れている存在であり、最も原動力となった存在でした。

 

親に怒られる際、ハンガーで殴られたり、羽交い絞めにされたり。

包丁で脅されたこともあれば、夜に小さい山に捨てられて自力で帰ったこともありました。

 

怒られることそのものより、怒られた結果殺されるのではないかと感じており、大きな足音が迫ってくるたび死の恐怖に怯えていました。

 

殺されるぐらいならと、自宅から飛び降りようかと何度も考えたことがあります。

 

家だけならまだしも、学校でも長期間にわたり辛いいじめに遭っており、教室から飛び降りようか考えたこともあります。

 

 

でもそれをさせなかったのはやはり「死」への恐怖でした。

 

 

自殺を最後に考えたのは小学3年生頃でしょうか。

それ以降はいじめてくる人にはされたことをしかえし、やれるものならやってみろという姿勢を前面に出して過ごしました。

 

もちろん、しかえせばさらにやり返されるわけですが、やられたらまたやり返せば良いというスタンスだったので常にいじめられているものの、もはや気にならなくなってました。

 

一番最後にきついなぁと思ったいじめは、受験の妨害をされそうになったことです。

受験シーズンである冬の時期は、毎年インフルエンザやノロウイルスが流行します。

 

馬鹿なくせに、人の嫌がることはすぐ思いつく連中だったので、体調が悪いにもかかわらずわざわざ登校して、私の近くで咳をしたりされたときは、やり場のない怒りがこみ上げてきました。

 

まあ結局私はインフルエンザにもその他の病気にもかからず、志望校に合格しました。そして、自殺も思いとどまってしまうほどの「死」への恐怖がその後も原動力となり、留年や浪人もせず馬鹿にされない程度の学歴を得て、ホワイト企業でゆったり働き、そこそこの収入を得るまでの状態になりました。

 

私に辛い思いをさせた親も、いじめてきた人たちも全員見返せるぐらいにはなれていると思います。

 

ただ、「死」に生かされた私は「人生で悲しかった思い出は何ですか?」と質問されても何も思いつかないぐらい、「悲しむ」という感情はほとんどなくなりました。

 

私は冷徹で薄情な人間なのかもしれません。

それでも、私の人生。

 

邪魔が多く長かったこの戦いは私の逃げ切りという形で終わらせることができました。

ものごとに終わりがあることも、「死」という存在が暗示していたから頑張れたのかもしれません。

 

 

 

このように、間接的、あるいは直接的にも私を育て、メンタルを鍛え、努力の原動力となった「死」。

 

私にもいつか訪れるこの存在に、これからは向き合わなければなりません。

祖母はよく「もうじき死ぬから」と昔から言っており、死ぬのは怖くないらしいのです。

私はこの言葉にいつも疑問に思っていました。

 

そして、道行く人や、自分よりも年上の人を見ると、「この人たちは死に向かっているのに怖くないのだろうか」「なぜだろう」とよく考えていました。

 

 

しかし、私の中の「死」への恐怖もなくなりつつあります。

祖母の言葉が単なる強がりでも憐れんでほしいからでもなく、本心からそう言っているのだと最近になって感じました。

 

いつかは死ぬ。でも死にたくないからできるだけ長生きして医療の発展を待つ。

そう考えて向き合うことを止め、避け続けていた「死」。

 

もしかしたら今は心のどこかで「まだ死ぬわけがない」と思っているから怖くないのかもしれません。

 

ただ一歩前進できたような気がします。

 

 

この世界規模の災厄を機に、私を育てた「死」への恐怖からは卒業し、「死」と向き合いながらなせることを成していけば良いのではないかと考えています。

 

 

私にとって第二の成人式を迎えたのかもしれません。

 

 

 

 

とりとめもない文章になってしまいましたが、2021年、そして先の未来が明るく平和でありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021/01/11 あぷふぇる